2017
01.28
Happy , celebrants with smart phones dancing during the color Holi Festival

【BLOG】なぜ音楽フェスはここまで浸透したのか。

BLOG

現在でも世界2位の市場規模を維持しているものの、低迷が続いている日本の音楽市場。長らくその根幹を担ってきた音楽ソフト販売は、1998年をピークにその半分程度まで落ち込んだ。1998年にはシングル14作品、アルバム25作品がミリオンセールスとなったが、2016年ではシングル5作品、アルバム1作品にとどまっており、その内訳はシングル5作品が握手券アイドル、アルバム1作品がSMAPの記念碑的ベストアルバムと、実質的に音楽として認められたものとは言い難い。

その一方で日本の音楽市場にとって明るいニュースもある。不振に喘ぎながらもいまだ光の見えない音楽ソフト販売を尻目にコンサート市場は成長を続け、2015年までの5年間で市場規模は2倍、その年には音楽ソフト販売をも上回った。このコンサート市場の成長と切っても切れない関係にあるのが、音楽フェスティバル市場の躍進だ。

他の大型野外フェスに先駆けてフジロックフェスティバルが誕生したのは1997年のこと。どちらかと言うとアウトロー、いま日本の音楽業界がないがしろにしているコアなリスナーに支持されながら、音楽フェスは地道に成長を続けてきた。その音楽フェスに日本の音楽市場が支えられているのだからある種皮肉とも言えるだろう。
なぜ音楽フェスはここまで浸透できたのだろうか?その手がかりは「体験の共有」と「時間の共有」にあると思う。

1999年、日本でもADSL(ブロードバンド型デジタル回線)によるインターネット接続サービスが開始され、インターネットは一般家庭にも爆発的に普及していった。2000年代中ごろになると、facebookやmixi、twitterのソーシャル・ネットワーキング・サービス、youtubeやニコニコ動画の動画共有サービスと、今日のネットカルチャーを語る上で欠かせないサービスが開始される。面識のない人間とネット上でコミュニケーションを取ることも当たり前になり、ネットに親しんでいる人間でその経験がない人などもはやいないと言っても過言ではなくなった。
インターネットはぼくたちにほぼ無限のきっかけを与え続けている。同じ趣味を分かり合える人間をそこに求め、日常の体験はそこで文字を介して共有・共感される。面と向かっていないからこそのコミュニケーションがそこにはあるのだ。

しかしその一方で、リアルのコミュニケーションが希薄になっていると指摘する声も小さくない。ともするとそういった意見は「ネット社会に対するアレルギー」とされがちだが、リアルに求められていた共有と共感が、すべてとは言わないまでもネットに求められるようになった結果、リアルのコミュニケーションを軽視するようになったのは間違いないだろう。

しかし本来リアルとネットのコミュニケーションは同列で語られるものではないとぼくは考えている。リアルにはリアルの、ネットにはネットの良い部分があり、それぞれの悪い部分を補完しあえばいいのだ。

以前に情報ソースとしての「リアル」・「本」・「ネット」を比較した記事を読んだことがある。その中では、『「リアル」は双方向性に富むが、距離や時間の制約が強く、「ネット」はある程度の双方向性を維持しつつも、距離や時間の制約がない』といったことが書かれていて、情報ソースとして「ネット」は非常に優秀だという内容だった。

双方向性というのは対話ができるかどうかで、「リアル」では対話が前提だ。「ネット」では検索ボックスに入力する文字を簡単な対話と見立てることができるし、記事にはコメントを返すこともできる。情報ソースにおいて対話ができるかは極めて重要で、「本」はぼくたちに一定の情報を提供しつつも、疑問に関してフレキシブルには対応できない。距離と時間については利便性だ。その点において「リアル」は他の2つに遅れを取っている。

この情報ソースとしての「リアル」・「ネット」の比較はコミュニケーションにも同じことが言える。リアルのコミュニケーションは対話性に優れていて、その反面、距離と時間の制約が強い。その点ネットのコミュニケーションは対話性でリアルには劣るものの、いつでもどこでもといった利便性がメリットだ。対話を重視したいのであればリアルでのコミュニケーションを選べばいいし、利便性を重視したいのであればネットのコミュニケーションを選べばいい。ただここではリアルのコミュニケーションに存在する距離と時間の制約をポジティブに考えていきたい。

上でも書いたように創設期から音楽フェスを支えてきたのはコアなリスナーだった。コアなリスナーほど生の体験であるライブにも比重を置く傾向にあるというのが音楽におけるぼくの体感だ。彼らはミュージシャンとともにする体験や時間に価値を見出してきた。そしてこのライブという生の体験はネットのコミュニケーションでは共有しづらい側面がある。距離や時間を超えて集まったコミュニティだけに、住んでいる場所はバラバラであり、生活する時間も同じとは限らない。当然同じ会場でのライブに参加するなんてことは珍しい。追っかけ的に全国行脚でライブに参加していれば話は別だが。

この問題を音楽フェスは一挙に解決する。ネットのコミュニケーションにはできない「体験の共有」と「時間の共有」が可能なのだ。なんならフェスティバルという特別な響きからは遠征する大義名分も感じるし、それをきっかけにネットのコミュニケーションがリアルのコミュニケーションに変わっていくだけの力が音楽フェスにはある。「体験の共有」と「時間の共有」こそが音楽フェスが浸透した理由だと思うのだ。

人は総じて共有・共感したい生き物だ。うわべでは「わたしは1人で生きていくの」なんて言っていても、ほんとうに一切の共有・共感なしに生きていけるとぼくは思わない。そういう意味で音楽が好きな人間にとって、さらにはライブが好きな人間にとって、音楽フェスはるつぼであり、商業主義に淘汰されかけている音楽ファンが共有し得る最大のムーブメントなのだ。

そして今現在、この各地に散在している点と点が集まれる場所——音楽フェスはとても貴重で有用だ。個人では見過ごされていく意見も集合すれば無視できないものとなる。市民権を得ても同じ轍を踏むことだけは絶対に避けなければならない。かつて創設期の音楽フェスがコアなリスナーに支持されたように、そこにいけば音楽のコア(核)に触れられるような、音楽フェスにはそんな場所であり続けてほしいと切に願っている。

 

文/結木千尋